日本柔道界の歴史において「平成の三四郎」として国民的な人気を誇り、1992年バルセロナオリンピックで日本中に奇跡の感動をもたらした古賀稔彦(こが としひこ)氏。2021年3月24日に53歳の若さで急逝したニュースは、日本のみならず世界中のスポーツ界に激震を走らせました。
生前、常に笑顔で柔道の魅力を発信し続けていた古賀氏の背後で、一体どのような病との闘いがあったのでしょうか。公表された病気の経緯や壮絶な闘病生活の舞台裏、そして息子たちをはじめとする愛弟子たちへ継承された熱き魂の軌跡を、取材記録をもとに詳しく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:古賀稔彦氏の直接の死因は腎臓がん(がん闘病)であり、2020年春の手術から約1年間にわたり極秘裏に闘病を続けていた。
- 要点2:左膝の大怪我を乗り越えて金メダルを獲得したバルセロナ五輪同様、重い病魔に対しても弱音を一切吐かず、最後まで柔道家としての誇りを貫いた。
- 要点3:創設した「古賀塾」の教え子や長男・次男(古賀玄暉選手ら)がその意志と背負い投げのDNAを受け継ぎ、現在も柔道界で躍動している。
【病気の真相】古賀稔彦氏の死因となった「腎臓がん」と闘病の経緯
古賀稔彦氏を襲った病気は腎臓がんでした。2020年の初春、体調不良を訴えて医療機関を受診したところ腎臓に悪性腫瘍が見つかり、同年春に片方の腎臓を摘出する大手術を受けています。手術自体は無事に終了したものの、その後も長期の入院と抗がん剤治療を余儀なくされていました。
当時、日本中が新型コロナウイルスの感染拡大に見舞われていた時期でもあり、古賀氏は自身の病状を世間へ大々的に公表することはありませんでした。柔道関係者やファンに余計な心配をかけたくないという強い配慮から、ごく限られた親族や関係者のみに病状を伝え、静かに病魔と闘い続けていたのです。
しかし、懸命な治療にもかかわらずがんの転移が確認され、病状は徐々に進行。2021年に入ってからは再入院を繰り返すなど厳しい状態が続き、最終的には同年3月24日朝、神奈川県川崎市内の自宅で静かに息を引き取りました。53歳という早すぎる旅立ちでした。
【壮絶な闘病生活】周囲を気遣い笑顔を絶やさなかった「平成の三四郎」
闘病中の古賀氏の姿は、まさに不屈の柔道家そのものでした。抗がん剤の副作用による激しい倦怠感や体重減少に苦しみながらも、病院のベッドの上や一時退院の合間を縫って、自身が総監督を務めていた環太平洋大学女子柔道部の指導やオンラインミーティングに顔を出していました。
画面越しに対面する学生たちを不安にさせまいと、やつれた顔をメイクで整え、持ち前の明るい笑顔と力強い言葉で激励を続けたというエピソードは、彼の人間性を象徴しています。関係者によると、「弱っている姿を見せるのは勝負師として失格」と語り、激痛の中でも弱音を吐くことは一切なかったといいます。
亡くなる数か月前、2020年末に公の場へ姿を見せた際、かつての屈強な体つきから大幅に痩せていたことから、ファンの間でも「古賀先生の体調は大丈夫なのか」と心配の声が上がっていました。それでも本人は「少し体調を崩していたけれど、もう大丈夫」と気丈に振る舞い、最後まで「柔道界の太陽」であり続けました。
【訃報と追悼の輪】日本中に広がった衝撃と告別式で見せた柔道界の絆
2021年3月24日に訃報が速報されると、日本中に悲しみの声が広がりました。SNSやニュースのコメント欄には「嘘だと言ってほしい」「あまりに若すぎる」「バルセロナの金メダルは今も目に焼き付いている」といった追悼の投稿が殺到。世界柔道連盟(IJF)もトップページでその偉業を称え、国際的な哀悼の意を表しました。
東京都内で営まれた通夜・告別式には、かつて畳の上でしのぎを削った戦友や愛弟子たちが多数参列しました。長年ライバルであり無二の親友でもあった吉田秀彦氏は、目を真っ赤に腫らしながら棺を見送り、「あんなに強い男がなぜ先に逝ってしまうのか」と無念の思いを吐露。バルセロナ五輪男子95kg級金メダリストの吉田氏と古賀氏の友情は、多くの人々の涙を誘いました。
また、古賀塾の門下生や指導を受けた多くの柔道家が参列し、旅立つ師に向けて感謝の祈りを捧げました。祭壇には、バルセロナで手にした金メダルと愛用の黒帯が誇らしげに飾られていました。
【伝説の経歴】バルセロナ五輪の奇跡の金メダルと不滅の功績
古賀稔彦氏が柔道史に刻んだ功績は、色褪せることがありません。佐賀県に生まれ、中学時代に上京して名門「講道館講道学舎」に入門。世田谷学園高校、日本体育大学と進む中で、芸術的な一本背負い投げを武器に快進撃を続けました。
世界柔道選手権を3度制覇(1989年、1991年、1995年)し、迎えた1992年のバルセロナオリンピック男子71kg級。本番直前の現地練習で左膝の靭帯を損傷する絶望的な大怪我を負いながらも、痛み止めを打ちながら畳に上がり続け、決勝戦で劇的な優勢勝ちを収めて金メダルを獲得。畳の上で男泣きする姿は、日本スポーツ史に残る伝説の一幕となりました。
続く1996年アトランタオリンピックでは階級を78kg級に上げ、銀メダルを獲得。軽量級離れした圧倒的な切れ味と勝負強さで「平成の三四郎」の異名を不動のものとし、柔道ファンのみならず日本中の人々を魅了しました。
【古賀塾と家族】長男・玄暉や愛弟子たちへ受け継がれる「一本の魂」
現役引退後の古賀氏は、後進の育成に心血を注ぎました。2003年には神奈川県川崎市に町道場「古賀塾」を開設。単に勝つことだけでなく、礼節や人間性を重視した指導を行い、女子柔道では谷本歩実選手をアテネ・北京オリンピック2大会連続の金メダル獲得へと導きました。
さらに、その熱き血脈は実の家族にも受け継がれています。古賀氏の息子たちも日本を代表するトップ柔道家として活躍しています。
- 長男・古賀颯人(はやと)氏:慶應義塾大学を卒業後、実業団選手および指導者として活躍。父譲りのキレのある柔道を体現。
- 次男・古賀玄暉(げんき)選手:世界ジュニア選手権優勝、講道館杯優勝など男子60kg級の国内トップ戦線で活躍。父を彷彿とさせる見事な背負い投げを武器に世界を目指す。
- 長女・古賀ひより選手:女子柔道界で実力を発揮し、父の教えを胸に畳に立ち続ける。
病床にあっても古賀氏は子供たちの試合映像を熱心にチェックし、的確なアドバイスを送り続けていたといいます。偉大な父の背中を追う子供たちの姿は、古賀氏が遺した何よりのレガシーです。
【柔道 古賀 病気】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:古賀稔彦氏が患っていた病名・死因は何ですか?
A1:死因は腎臓がんです。2020年春にがんの手術を受けて片方の腎臓を摘出し、約1年間にわたる入院・通院治療を続けていましたが、2021年3月24日に53歳で逝去されました。
Q2:闘病生活はなぜ直前まで公表されなかったのですか?
A2:古賀氏本人が「柔道関係者やファン、指導している学生たちに余計な心配をかけたくない」という強い信念を持っていたためです。弱音を見せず、最後まで前向きな指導者・柔道家としての姿を貫くための決断でした。
Q3:古賀稔彦氏の得意技「一本背負い」は誰に受け継がれていますか?
A3:創設した「古賀塾」の教え子たちをはじめ、次男である古賀玄暉選手(旭化成所属)をはじめとする実子たちに受け継がれています。豪快かつ緻密な背負い投げの技術と精神は、現代の柔道界でも脈々と息づいています。
まとめ:不屈の精神を遺し旅立った「平成の三四郎」の永遠の輝き
柔道家として数々の伝説を打ち立て、病魔との闘いにおいても最後まで誇り高く生き抜いた古賀稔彦氏。突然の訃報から時間が経過した今もなお、その功績と温かい人柄は多くの人々の心に深く刻まれています。
怪我に屈せず頂点を極めたバルセロナ五輪の感動、町道場から世界へ選手を送り出した指導力、そして家族へと託された「一本を取る柔道」の魂。彼が遺した不屈の哲学は、これからも時代を超えて日本柔道界を照らし続けるはずです。 (出典: 柔道 古賀 病気(Yahoo!ニュース))